「なぁ阿部。今日俺んち泊まりに来ねぇ?」 家族が親戚んちに行って、明後日まで誰もいないんだ。そう花井に誘われたのは、部活終了後、部室で着替えているときだった。 部室に残っているのは日誌を書いていた主将の花井と、鍵当番である阿部だけで、皆はとっくに着替え終わって早々に帰っている。 阿部が振り返ると、花井が真っ赤になりながら阿部を見上げていた。 「明日明後日、ちょうど連休、だしさ」 部活も休みだろ。にこりと笑いながら、さりげなく誘っているつもりらしいのだが、ぎゅっと握られたこぶしが微かに震えているのが阿部の目に入る。 緊張している花井の姿がおかしくて、阿部は思わずぷっと吹き出した。 「何震えてんだよ」 「ふ、震えてなんか…!」 「うん、行く。お前んち」 ぽん、と花井の肩を叩いて、阿部は微笑む。阿部の返事にほっと安心したのか、花井はふにゃりと眉毛を下げ、口元をほころばせた。 日誌も書き終えたのだろう、いそいそと鞄をまとめ始める。阿部自身もちょうど着替え終わり、鍵を持ってロッカーをバタンと閉めた。 「一旦家帰ってから、お前んち行くな」 「ん、わかった」 「じゃー後でな。家出るときメールするから」 花井にそう告げると、阿部は一足先に駐輪所を出た。 自転車を勢いよくこぎながら、阿部は自分の顔がにやけていないかと心配になる。今まで何度か花井の家に行ったことはあるけれど、泊まりとなると今日が初め てだ。 付き合い始めて、初めての泊まり。きっと何かある、そう思っているのは阿部だけではないだろう。 速くなる鼓動を感じながら、阿部は家への道を急いだ。 xxx 『今家出たから』 必要最低限の荷物を用意して、花井の家へ向かった。時計を見ると9時半を指している。恐らく10時すぎには花井の家へつけるだろう。せっかくだから途中で コンビニにでも寄って、差し入れでも買っていくかな。そんなことを考えながら花井にメールを送る。 友達の家に泊まることなんて、今まで何度もあった。だけどこんなにも緊張した覚えなどなかった。 (やべぇ、今俺絶対顔赤い…) 自転車をこぎながら片手を頬にやると、いつもよりも明らかに熱くて。逸る心を必死で落ち着かせ、阿部はペダルをこぐ足に力を入れた。 自宅と花井家のちょうど中間地点に差し掛かったあたりで、コンビニを見つけた。まだ何を買うか決めていなかったけれど、とりあえず自転車を止めて店内へ 入ってみる。店内は、火照った身体には暑いくらいの暖房が効いていた。 なんとなしに飲み物売場へ足を運ぶと、数種類の酒が目に入った。明日はせっかくの休みだしちょっとくらい、といくつか手にとってみる。真面目な花井は「酒 なんて…」と渋りそうだけど、酒が入ればそういう雰囲気にもなりやすいかな、なんてことを考えて、阿部ははっと我に返った。 (な、何考えてんだ俺?!み、未成年だし!駄目だろ酒は!!) 首をぶんぶんと振って、手に取った酒を慌てて元に戻す。真っ赤になりながら大急ぎでその場を離れると、スポーツドリンクのペットボトルを数種類選んで、レ ジへと向かった。 会計を済ませ店を出ると、はぁ、と息を吐く。白い息が外の寒さを表しているのに、阿部の身体は未だ火照ったままだ。 自分が思ってる以上に、浮かれているのかも知れない。パンっと頬を両手で叩くと、「っし、行くか」と自転車にまたがり、満天の星空の下、ペダルをこぎ始め た。 xxx 「タカヤ?」 ふいに名前を呼ばれたのは、コンビニを出て10分くらいたった時だった。最初はまさか自分のことを呼ばれているなんて思わなくて、そのまま通り過ぎようと したのだけれど、「おい、待てって!タカヤだろ?阿部隆也!!」とフルネームで呼ばれたので、やはり自分のことか、と素直に自転車を止める。何となく聞き 覚えのある、その声。 まさか、と止めた自転車の元へ、声の主が走って近づいてきた。その人物は、思った通りの人で。 「元希さん…」 「やっぱ隆也じゃん!無視すんなよなぁ」 榛名は笑いながら阿部の頭を小突いた。ジャージにパーカー姿で、額にうっすらと汗が浮いているのをみると、恐らくロードワークの途中だったのだろう。プロ を目指す榛名は、自分の身体を作るのに決して手を抜かない。特に冬が近づくと、身体に脂肪がたまりやすくなるからと言って、シニア時代から、毎日の走りこ みを重点トレーニングにしていたことを思い出した。 「スンマセン、俺のことだと思わなくて。ロードワーク中スか?」 「おー。まさかこんなトコでお前見るとは思わなかった。お前んち、こっちじゃないだろ?これからどっか行くのか?」 「はぁ、まーそんなトコです」 じゃ、急いでるんで。そう伝えてさっさとその場を離れようとすると、榛名は阿部の自転車のサドルに手をかけ、思い切り引っ張った。 思わずつんのめってしまい、慌てて地面に足をつける。 「ちょ…何するんスか!危ねぇだろ?」 「何、こんな時間にでかけるって、まさか彼女ん家とか?」 「な…っ」 榛名の言葉に、思わず阿部は真っ赤になってしまった。しまった、と思ってももう遅くて。榛名がにんまりと笑って阿部の肩に手を回した。ぐい、と自分の方へ 阿部の顔を引き寄せる。 「真っ赤になって!可愛いなぁ隆也。明日休みだからお泊り、か?」 「違…」 言葉で否定しても火照った顔は誤魔化すことができなくて。側にある榛名の顔を遠ざけようと胸を押すと、額に暖かい何かが触れるのを感じる。それが榛名の唇 だと感じるのに数十秒を要した。 「…なっ?!何す…!」 「えーだってお前可愛いんだもん」 「か、可愛いって何だよ…っ!」 額を押さえながら思い切り榛名の胸を突こうとすると、榛名は笑いながらひょい、と避けて阿部の側から離れる。 額とはいえ、榛名からの突然のキスに動揺していて、近づく足音に阿部はまったく気付いていなかった。 「阿部…?」 じゃり、という足音とともに聞こえた自分の名を呼ぶ声に、驚いて振り向く。そこには花井が息を切らしながら立っていた。 「花井…!?どうし…」 「阿部が遅いから…なんかあったかなって思って」 どこから見られていたのだろう。先程のキスを花井に見られたかもしれないという焦りで、阿部の思考回路はうまく働いてくれない。「えと、その」という意味 のない単語しか出てこなかった。 「榛名サン…ですよね?武蔵野の…」 「おー俺のこと知ってんだ?隆也のチームメート?」 「はい、主将の花井です」 焦る阿部をよそに、ぺこりと頭を下げて花井は榛名に挨拶をしている。ロードワーク中ですか?と訊ねる花井に、榛名も微笑みながら、いつもこれくらいの時間 にこの辺りを走っているのだと答えていた。阿部はそれどころじゃなくて、二人の会話は全く聞こえていなかったけれど。 「なんだ、泊まりに行くトコって花井くん家だったのか」 「そーッスよ。今度の練習試合の打ち合わせとかもしたかったんで」 「そっか、俺てっきり彼女ん家かと思ってさ」 だからからかってたんだけど。にやりと笑いながら、榛名は阿部の肩をぽんと叩いた。花井は「彼女じゃなくてすみません」と笑いながら榛名に返している。け れどその笑顔が、まったく笑っていないことに阿部は気付いた。 表面上だけの笑顔。花井のそんな表情を阿部は見たことがない。思わず肩を抱きしめぶるりと身を震わせると、花井がそれに気付いたのか、「このままだと身体 冷やしちゃいますね」と榛名に声をかけた。 「っと、それもそうだな。じゃー俺行くわ」 「はい、気をつけてくださいね」 「さんきゅ。隆也も!またメールすっから!」 手を振りながら去っていく榛名を見ながら、「最近メールなんてしてねぇだろ」とつぶやく。 けれどその声は榛名にも花井にも届くことはなく、冷やりとした夜の闇に吸い込まれていった―――― xxx 「迎えに来てもらって…悪かったな」 「いや、いいよ。つか行き違ったりしなくてよかった」 花井の家につくと、先程買った飲み物を手渡しながら声をかける。 阿部の言葉に答える花井の声は、いつもと変わらないように聞こえた。表情も、いつも通りだ。 さっきのことを言うなら、きっと今しかない。そう考えると、阿部は意を決して口を開いた。 「あのさ、花井…さっきのことだけど…」 「さっき…?あー榛名サンのこと?」 「あぁ、その、アレは偶然…」 「…偶然でキス、すんのか?」 ドキリとした。花井の表情が、なくなっている。ただ阿部を見据えるその目がひどく冷たくて、思わず阿部は後ずさった。 阿部が一歩退くと、花井は一歩、阿部との距離を縮めてくる。壁際まで退くと、花井の腕が阿部の手をぐい、と掴んだ。 「痛っ…」 容赦のない力に、思わず声を上げる。阿部の声に我に返ったのか、花井はすぐに掴んだその手を離した。 「悪ぃ…大丈夫か?」 「あ、あぁ。大丈夫…」 腕をさすりながら俯く阿部を、花井はぎゅう、と抱きしめた。微かに花井が震えているのは、気のせいではないだろう。花井の体温が、じんわりと伝わってく る。胸に顔を預けると、トクトクと花井の鼓動が聞こえてきた。 「ごめん、頭ではわかってんだけど、俺、榛名さんに嫉妬した」 「花井…」 「阿部がすげー楽しそうに榛名さんと話してるの見てさ、浮かれてたのは俺だけだったのかなって。そう思ったら悔しくて」 あの人とは何もないから。阿部がそう伝えると、花井はほっとしたように微笑んだ。花井の笑顔が戻っている。 その笑顔を好きになったことを阿部は思い出す。もう二度と、花井のあんな表面だけの笑顔はみたくない。そんな表情にさせたくない。 「浮かれてたのは、お前だけじゃねーよ」 花井の顔を見上げると、両手を伸ばして頬に手を添え、ぐいと自分の方へと引き寄せる。唇を合わせると、頬に添えた手を花井の首筋に絡めた。 後頭部に花井の手が添えられ、キスが次第に深くなっていく。冷え切った互いの身体が、どんどんと熱をもっていくのがわかる。 唇を離し目を開くと、花井自身も阿部の目を見つめていて。色素の薄い瞳に、自分の姿が映っているのが妙に恥ずかしくて、思わず笑ってしまう。笑いながら、 自分の目にも花井が映っているのかと思うと、それが嬉しかった。 「…部屋、行くか?」 「…おぉ」 互いに笑い合い、二人はゆっくりと部屋へと向かった。 xxx 次の日、家族が帰ってくるのどうせ明日だから、という花井の言葉に甘えて、結局その日も泊まることになった。 部活も完璧なオフだったので、今度の練習試合の打ち合わせをしたり、授業で出された課題をしたり、コトをいたしたり、と阿部はずっと花井と一緒に過ごして いた。 阿部自身、正直これは一緒にいすぎじゃないのだろうか、と思ったりもしたのだけれど、昨日の榛名とのこともあったし、何より花井が嬉しそうにしているの で、これはこれでいいか、と思うようにした。 (甘やかしすぎだとは思うけど) 嬉しそうな花井を見て苦笑すると、「何だよ?」と花井が訝しそうに阿部を見つめた。 「何でもねーよ」 「そっかぁ?ヘンなヤツだな…っともうこんな時間か。な、阿部、ちょっとコンビニ行かね?欲しいモンあんだけど」 「今からかぁ?昼間に行けばよかったのに」 「ごめんごめん、忘れてた」 楽しい時間はあっという間に過ぎていて。時計は夜10時を回ったところだった。 お詫びになんかおごってやっから、という花井の言葉もあって、阿部は花井と一緒にコンビニまでついて行くことにした。 昨日と同じ満天の星空のおかげか、外は意外にも明るい。 途中、話しながらコンビニへ向かう道の角を曲がると、阿部は反対側からきた人物にぶつかりかけた。 「…と、すんません」 「いえこっちこそ…って隆也?!」 突然呼ばれる名前に驚いて見上げると、相手は榛名だった。昨日と同じ服装で、今日は頭にタオルを巻きつけている。やはりロードワーク中だったのだろう。 思わず花井の方を見ると、花井はにっこりと阿部に微笑み返した。いつもどおりの笑顔でほっとする。 「こんばんは、榛名サン」 「あ…と、こんばんは、花井くん、だっけ」 気まずい空気が流れているのがわかる。何か話した方がいいのだろうか、と悩んでいると、先に花井が沈黙を破った。 「榛名サン、昨日のアレ、わざとですよね?」 「はぁ?…何のことだ?」 「阿部にキスしたことです。俺が近くにいたのわかっててしたでしょう」 花井の言葉に、阿部は驚く。いきなり何を言い出すのかと花井を問い詰めようとしたが、花井がちらりと阿部を見つめてそれを制した。 花井の意図が分からないまま、仕方なく阿部はそれに従う。 「そうだとしたら?」 じろりと睨む榛名の目は、明らかに怒気を含んでいる。阿部はシニア時代、榛名がチームに入ってきたときのことを思い出した。あの時と、同じ目だ。 「今日は、あなたに伝えに来たんです」 「だから、何を」 イライラした様子で、榛名が花井の言葉の先を促した。 花井はにっこりと微笑むと、急に阿部の方を振り向き、ぐいと腕を引っ張った。 何するんだ、と声を出す前に、阿部の唇は花井のそれで塞がれていて。あまりに突然のキスに、阿部は目を白黒させる。何が起こったのかすぐには理解できな かった。 花井の唇が離れると、その光景を見つめていた榛名が、思い出したかのように声を発する。 「な、何を…!」 「阿部は俺と付き合ってるんで」 「はぁ?」 「だから、手、出さないで下さい」 それだけ言いたかったんです。花井はそう榛名に告げ、ぺこりと頭を下げると、阿部の手をとり、くるりと元来た道を戻り始めた。 榛名は呆然とその場に立ち尽くし、二人が去るのを、ただじっと見つめていた。 xxx 「ちょ、花井…手、離せ!痛い」 「あ、と…悪ィ」 ぐいぐいと引っ張られる腕が痛くて思わず声を上げると、花井は我に返ったようにその手を離した。 腕をさすりながら花井を見上げると、花井も阿部の方を振り向いた。その顔は、つらそうなほどに眉間に皺が寄っていて。 「さっきの、何だよ。何で、キスなんか…」 「ごめん…!」 がばっと花井は頭を下げた。小刻みに震える肩が、花井がずっと緊張していたことを表している。 阿部ははぁ、と溜息をつくと、花井に顔を上げるように声をかけた。阿部の言葉に顔を上げた花井は、ふにゃりと眉毛を下げて、微かに微笑んだ。 「悪かったとは思う。でも俺、後悔はしてないから」 「な…」 ふぅ、と一旦深呼吸をすると、花井は話し始めた。 「昨日あの場所に行った時、一瞬榛名サンと目が合ったんだ。そしたら榛名サン、お前の肩に手ぇ回すわ、あげくにお前にキスするわで。あーこの人、わかって やってんだろうなって」 「だけどっ…あの人は花井のこと、知らなかったはずじゃ…?現に、付き合ってるって話聞いて驚いてただろ?」 「うん。だからたぶん榛名さんの行動は、ただお前をからかうため、だったと思うんだ」 「俺を?」 そう。榛名は花井に見せ付けたかったわけではなく、阿部が困る姿を見たかったのだろう。 花井がそのことを阿部に伝えると、阿部は不思議そうな顔をした。なぜ榛名がそのような行動に出るのかがわからない。 「榛名サン、お前のこと好きなんだと思うよ」 「は?」 好きな子ほどいじめたいっていうじゃないか。花井が笑いながら伝えると、阿部は思わず真っ赤になる。そんな小学生みたいな…そう思うけれど、榛名の性格な らそうなのかも知れない、と妙に納得してしまう。 「でもな」 「え…」 「だからといって、お前を榛名サンに譲るわけにはいかねーし。昨日話した時、毎日今ぐらいの時間にこの辺ロードワークしてるって言ってたからさ。だから、 俺らのこと、言おうと思って。牽制しときたかったんだよ」 騙したみたいで本当にごめん。花井は素直に謝った。 阿部は再度溜息をつくと、花井の肩をぽん、と叩いた。「そんなに謝られたら、俺怒れねーだろ」そう花井に告げて微笑むと、花井もほっとしたように笑う。 じゃぁ帰るか、とどちらからともなく家への道を歩き始めた。 「阿部」 家に着いたとき、花井に呼び止められた。何だよ、と振り向くと、花井が真剣な顔で阿部を見つめていて。 「俺、やっぱりまだ榛名サンに嫉妬してんだと思う。けど」 「…けど?」 「何があっても負けねーから。俺のがお前のこと、好きだからな」 花井の言葉に、阿部は真っ赤になった。花井はにっこりと微笑むと、「それだけはわかっといてな」と阿部に伝えて先に家の中に入っていく。 よくもまぁそんな恥ずかしいセリフを、と思うのだけれど、家に入る直前に見せられた花井の笑顔を、愛しいと思う自分がいて。 (あー俺も相当ヤバいかもな) そんなことを考えていると、家の中から花井の阿部を呼ぶ声が聞こえてきた。「今行く」と声をかけ、カシャリと門を閉めて家へと入る。 きっと何かある、と思っていた初めての泊まり。それは甘酸っぱい感情を二人の間に残していった。 満天の星空が、二人のいる家を今夜も照らし続けていた――――― END |
|